不香の花|鴨河SS

─ アンドレイ、エハイム、ミズエラ、トルスト
─ ネイガン、キール、ヨハン、ソー、ハンス

あと5人。ああ、そう。

─ ジェイド、ナランサ、シモンズ、バイロン、クラーク

馬油を塗りこんだ指先を折り曲げながら、まるでひとつの呪文のように名を数える。
薬指と小指は曲がりきらず、手のひらの皮膚は突っ張った肉の色をさらけ出していた。
まったく、不細工な事この上ない。
床に臥す間も唱え続けていた名前は、今となってはただの羅列に過ぎない。
すでに私自身、彼らの顔を覚えていないのだから。
もしかしたらそれすら、思い出したくないのかも知れない。
人に名があって良かった。曲がらない指を見ながら思う。

団への休暇届けは簡単に受理された。
期間は2週間。十分とは言いがたいが、往復くらいは出来るだろう。
もっと北の指定宿を希望すれば良かっただろうか。
いやそれは出来ないな。北部には東シバがある。さすがにメトセラに在籍しながらでは難しい。
結局、ここが今私が滞在出来る最北であることに変わりは無いか。

最小限の荷物だけを革袋に突っ込み、夜明けとともに乗合馬車へ乗り込む。
北の稜線は深い群青に滲み、いまだ星が残っていた。
寝息まじりの馬車の中で、私はただ明けていく空を眺める。

* * *

冒険者派遣を言い渡された時には、厄介払いをされたのだとしか思えなかった。
緊急要請があれば戻るようにという制約だけはあるが、メトセラから離れた場所へ緊急時にどれほどの速度で要請が届くかなど安易に想像がつく。
要するに、蚊帳の外に居ろと言うことだ。
それなら私は私で好きなようにやらせて貰う。

馬車を乗り継ぎ、小さな村で休みながら北上していく。
本来なら徒歩で向かうべきなのだろうが、移動にそこまで時間を割いてもいられない。
途中に立ち寄った冒険者宿で転移持ちを見付け、星の学院までの転移を依頼した。
観光かと聞かれ、苦笑いが浮かんだ。

北域に差し掛かる頃には馬車も減る為、荷運び用の馬車へ同行させて貰う。
随分と空気も冷えてきた。そろそろ本格的な防寒具をどこかの街で買わなくてはならない。
おそらくあと2日か3日で、目的地には到着するだろう。

「花、ですか」
「ああ、何でも構わないが、出来れば……そうだな、多い方が良い」

北域の交易街で防寒具を見ながら店員に尋ねると、難しい顔をされた。
南方ではそこかしこに付けていた花も、北域になれば徐々に見ることが無くなる。
代わりに固い葉を付けた木々が立ち並び、それでもここにとっては、それが春なのだ。

花の代わりに、花のような葉をつける植物を教えて貰った。
この辺りではさして珍しいものではないと聞く。
小さな葉がいくつか束なり、遠目では丸い塊の花のようにも見えた。
葉の先に向けて白い斑点が重なるその植物は、古い言葉で雪の意味を持つ名前だった。

* * *

首元から鼻にかけて厚布を覆い、さらに耳当ての付いた帽子をかぶる。
幾重にも重ねた内着と毛皮の縁取りがされた外衣。
長居をするつもりは無いが、やることを思えば雪まみれになるのは分かりきっている。
ブーツの履き心地を確かめ、紐を何度か結び直す。
……重たいのは、はじめの一歩だけだ。
浅くなりかける呼吸に気付き、目を閉じて深呼吸を繰り返す。
開けた私の目に映るのは、あの時、あの日と寸分変わらない、真白の雪原だった。

細かな雪の感覚が足元から伝わってくる。
一歩進む度、自分の重みで足が沈み、場所を選ばなければそのまま足を取られてしまう。
出来る限り視線を落とさぬように、山々の形と重たい雲の隙間からわずかに滲む太陽の位置を時折確認しながら先へ進む。
目的地がはっきりと分かっているだけ、ずいぶんマシだと思う。

後ろを振り向けば、私の足あとだけが点々と残されていた。
体力と時間を考えると、進めるのは、せいぜいあと3時間程度だ。それまでにどこまで行けるだろうか。
せめて吹雪かないことを願う。

ただ呼吸が乱れないことに注意をしながら歩みを進める。
道筋を正確に覚えている自信はもとより無かった。
どうやって帰ってきたかすら朧気なのだ。
あれから、雪原はどこも同じように見える。
うず高く積もれた雪塊の下に、何かがいるように見える。
考え始めて、意識を再び呼吸に集中させた。
何もありはしない。あるとしたら、それは私の妄執だけだ。

そろそろ折り返さなければならない時間になった頃、ようやく目的地らしき場所に辿り着いた。
雪にかき消され何の痕跡も無い為、遠くそびえる山脈の影から予測するしか無い。
確かここが、はじめての野営地だった。
背負っていた革袋から、交易街で包んで貰った花束を取り出して足元に置く。
……こんなに何もない場所だ。多少の位置ずれは勘弁な。

手袋を外し、厳重に紐を結びあげていたブーツを脱ぐ。
手と膝をつき、額を雪につけるように体を屈め、幾度も唱えた名を呼んだ。

─ アンドレイ、エハイム、ミズエラ、トルスト
─ ネイガン、キール、ヨハン、ソー、ハンス
─ ジェイド、ナランサ、シモンズ、バイロン、クラーク

あなた達を送る祈り方を、私は他に知らない。

一瞬、ざわめきが聞こえたような気がして思わず周囲を見渡す。
曇天から射すわずかな光は雪がすべて吸い尽くし、ただただ静かだった。
あの日、耳元で騒がしく聞こえた吹雪の音も無い。
ここはこんなにも穏やかな場所だったのか。
目元のぴりぴりとした痛みに、ようやく私は、自分が涙を流していることを知った。

* * *

帰路につく馬車の中で、いつも通り手のひらから指先にかけて馬油を塗りこむ。
指は相変わらず曲がりきらず、不恰好そのものだ。

握ると爪先が手のひらを抉るため、手袋を付けるようになった。
戻りきらなかった握力を補うため、両手で扱える武器を持った。

そうやって積み重ねていくのだ。
私は、生きているのだから。

いつの間にか雪原リベンジを果たしていた模様。
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