新年の挨拶もそこそこに。

新年あけましておめでとうございます。
2016年はラスト1ヶ月半ほどを完全にユーリに持っていかれていました。
その持っていかれたまま宙に浮いてた感想を改めて練り直して
他に吐ける場所がなかったので、
新年の挨拶もそこそこにココに落とす暴挙に出ました。
書けども書けども尽きないんだもん!!!
めちゃくちゃ長くなってしまったので追記にて。
具体的に言うと、15,000字ありました(白目)


延々と見逃し放送で最終話を見つつ一挙も見終わり、
手元にあるユーリBD1巻とスケトラを眺めながら、
一体何がこんなに私の涙腺にアタックし続けてきたんだろう 、と思う訳です。
そんな視点で最終話まで観終わった感想的な何かを叩きつけていくよ。
姑息な逃げ道も置いておこうねぇ( ˘ω˘)っ【感想には個人差があります】

■序盤から輝くミスリード

ユーリonICEはまるで
「冴えない主人公の元に突然現れた神様が、主人公を育て世界の王者たらしめる成長物語」のように始まる。
あたかもスポ根の成長物語やシンデレラストーリーのように始まる。
勇利くんが初っ端から「自分はどこにでもいるスケーター」なんて自己紹介をするし、舞台も「GPFでボロ負け」したところからスタートするからだ。

とんだミスリードだよ。
スケートにわかはほいほい騙されたよ!

そのミスリードのまま、私は勇利くんは才能を持った原石だと思ってたんだ。
磨けば光る原石だと思って、ヴィクトルは原石を宝石まで磨きあげる神様だと思ってたんだ。
とんだミスリードだったよ。
違った、彼普通に宝石だわ。宝石店に並んでるわ。すでに磨き抜かれてた。
発揮されれば十二分に世界に渡り合える実力はもう元々持ってたんだ。
そしてこのミスリードは序盤だけではなくて、作中通してちらっちらと発揮されてる。
本当に、勇利くんのモノローグほど信じちゃいけないものはないんだ。
とはいえ知れる情報は勇利くんのモノローグに頼るしかないものだから、
そのミスリードの上でころころと転がされ続けるしかないんだ。

一番はじめのミスリードは、前述したとおりの勇利くんの自己評価。
全然ありふれてないからね!?
本人の自己評価は低いのに、たしかにそこまで勝ち残ってきたアスリートらしい闘争心も持っていて
ただその闘争心が引き出されるには何かこう、やたら複雑なクエストが必要だった、という感がある。

二番目のミスリードは、ヴィクトルのコーチ就任。
まるでヴィクトルが日本の冴えない選手の可能性を見初めて来日、みたいな描かれ方してたけど
そもそもヴィクトルにコーチ頼んだの勇利くんだったんだからね!!!びーまいこーち!!!!
そらヴィクトルもあの0距離バンケットから一気に広がった距離感に困惑するよ。
ヴィクトルも序盤で「なんでコーチを引き受けたか」って言ってるんだよなあ。
天才様の超曲解による引受ではなく、ただの事実であった。

三番目のミスリード、とは言えないかもしれない。
これは勇利くんが滑走中に迎えた変化でもあった最終話の決断。
そこに至るまでも「良いから二人で話し合え、はやく二人で話し合え、いますぐにだ」という状況下のまま進んでましたが。
この信用ならない話し合わない主人公目線で物語を見ることになるので
予想はおろか、勇利くん目線の話がそもそも信用出来ないんだよ!
しかも1回あたりの情報量が多すぎて何度見返しても気付くこと多すぎて
まったくもって追いつかないですBD揃うのは半年後です遠いなあ。

■死にかけの二人と、死ねと言われた一人

GPFで死にかけて進退を考えていた勇利くんと、
リビングレジェンドとして来ながら高難易度プログラムを完遂してイマジネーションに枯渇したヴィクトル。
前者に関しては1話の諸岡アナとの会話や囁かれるニュースで、
後者に関しては3話あたりのユリオが話してくれてた。
自分にイマジネーションが出ないなんて死んでるも同然だと。
特にヴィクトルの場合、自分ですべてプロデュースをする自己供給型だから、
自分から出てくるものが無いとなればほぼほぼ死人になってしまう。

対するユリオは、15才のシニアデビューを控えてこれからの道に満ちあふれているように見えながら
己の容姿を生かしきれるプログラムは今の時期だけだと把握出来る聡さがある。
それに加えてリリア先生の「昨日の自分は死にました!」
新たに生まれ続けるものだけが強くなれるのだというこのセリフ、すごく好き。
アガペーを通すことで今の自分では表現しきれないものがあると知り、
生まれ変わりを見据えて、昨日の自分を死にながら迎えている。
死にかけの勇利・ヴィクトルと、死にながら次の自分を模索しているユリオ。
勇利くんは自分の中にあるものを吐露しながら新しい何かを模索し続け、
ユリオは自分にないものを取り入れて変化しながら何かを模索し続けてる。

これはもしかしたら彼らの年齢によるものなのかもしれない。
23才ですでに実力もある勇利くんが向かい合うべきは自分で、
15才の未来の方がよほど長いユリオが見るべきは外だったのかもしれない。
これは二人に割り振られた『愛について』の二曲の変移からも窺い知れる。

では27才のヴィクトルが見るべきはどこだったんだろう。
と、思って、『愛について』を次シーズン用に作っていたことも考えると
ヴィクトルにはその両面が必要だったのかもしれない。

内にあるもの、外にあるもの、それを取り入れることや放出すること。
基本的にヴィクトル天才様だから、振り付けも曲も自分で全部作れてしまう。
ひとりきりで完結出来てしまった天才様だからこそ、エロスとアガペーの二曲が必要だったのかもしれない。

そして、年齢も境遇も違う彼らに共通しているものは、孤独死の未来。
最終話まで見て、もしもあのままだったら
それぞれがそれぞれの場所で、ひとりで選手として死んでしまっていたのではないかと、 より一層思う。
それを際立たせるのが、1話での勇利くんの姿だった。
スケート引退は考えていなかったけれど、これからひとりで滑っていくのだと考えていた。

■変化し続けるプログラム

物語の構成面で面白い点として、同じプログラムが何度も登場することも挙げられる。
グランプリファイナルという試合の構成上、ショートプログラムとフリースケーティングの二種のプログラムが大会のたびに出てくる。
リアルのスケート競技に詳しい人から見ると、GPF自体大切な大会ではあっても
より権威のある大会はあり、何故GPFを物語の終わりに据えたのかと疑問にも思うらしい。
ただこれに関してはとてもメタいけれど、
同プログラムの完成と試合の様子を数回にかけて描ききるためだったんじゃないかなとも思ってる。
あ、あとはほら、あれだよ。
向こうの世界のGPFは、何かこう、すっごいんだよ。

今回はGPF前の国内大会から描かれてきたので、
エロスは温泉オンアイスを含めれば5回、Yuri on Iceも4回描かれたことになる。
まじか。そんなにか。
12話構成の中で同じプログラムを一週おきに見ることになる勢いではあるものの、
YOIプログラム見るたびに泣いたね。それはもう条件反射のように泣いたね。

何で毎回こうも胸に迫ってくるのかと言えば、プログラムが変化をしていくからなんだ。
これは勇利くんのプログラムだけに限ったことではなく、各選手達のプログラムも変化をし続けている。
この変化こそが各選手の変化でもある。
表現力という面もあれば、明確な変化もそこにある。
勝ちにいくための構成変更なんかは一番分かりやすい。
そして本来の構成であったものが失敗すること、これも分かりやすい。
同じ滑走は一つとしてなく、
彼らが何を見て、何を得て、何に怯えて、何を克服してきたのか
それが毎回の滑走に詰め込まれている。
リアルタイムの今その状況にいる彼らの姿を反映する。

この毎回変わるプログラムを見続けるスリルや臨場感には、演出面の素晴らしさも大きく寄与している。
見ていると分かるのだけど、プログラム中には演技への過度な演出は一切されていない。
あくまでリアルタイムで滑っている尺そのものが基準。
途中途中で回想やモノローグが入ることはあっても、演技への過度な演出が一切含まれていない。
演技はあくまでもカメラワークで描かれていくのが、やり直しの利かない本番滑走感を盛り上げてくれる。
そして回を追うごとにカットも追加されて、より一層完成されていくプログラムを追いかけていく事が出来た。

あと諸岡アナが素晴らしすぎた。3話のすぱしーばすぱしーば大好き。
開幕のファンファーレと共に諸岡アナの声が入ると急に臨場感が増す。
10話の開幕アナウンスは、静かにぴりぴりと盛り上がるBGMと諸岡アナの実況の温度差が最高だった。

■ふたつの“愛について”

“愛について”は、それぞれ勇利とユーリに割り振られたプログラムだ。
温泉オンアイスからその変移はかなり細かに描かれている。
エロスとアガペーという対極にあるプログラムを掘り下げていきながら、
自分の中にあるもの、自分を取り巻くもの、自分から発せられるものが徐々に変化をしていく。
このプログラムの完成と、YOIの完成が毎回私の涙腺を殴りに来る。

・経緯から少しおさらいすると

この二つはヴィクトル自身のイマジネーションを元に作られたプログラムであることも大事だと思うんだ。
これまでのヴィクトルの作ったプログラムを知る術が無く、
前例として挙げられるのは『離れずにそばにいて』のみとなるので若干根拠に自信はないけれど、
ヴィクトルは恐らく、完成したものをプログラム化しないんじゃないかと思う。
それは常に新しい自分をつくり続けることで喜ばせてきたというモノローグから察することが出来る。
新しい・つまり今の自分の少し先にあるものや、今の自分には無いものをプログラムとして作り、
それを氷上で表現し続けてきたのではないか。
(それがやがてヴィクトルを行き詰まらせていったのだけど)

アガペーとエロスを掘り下げる前に、少しこの『離れずにそばにいて』に触れておきたいところ。
アリア《離れずにそばにいて》、朗々たる男声が歌い上げるこの楽曲は歌詞がなかなかアグレッシブ。

- 愛の歌を歌うその喉を剣で突き刺したい
- 恋の歌を綴るその手を凍らせたい
- 何の意味もないこの物語は星と共に今宵消える

愛絶対殺すマンだ怖い。

最終的には、“あなた”を得ることで共に旅立とうとする歌詞ではあるものの
とても次作に愛についてを選ぶようなメンタルじゃなさそうに見える。

元々ヴィクトル大モテの人なので、モテ期待に応えての愛のスケーティングという可能性も考えたけれど、
イメージ通りのものを滑っても驚きはないだろうと2話あたりで一刀両断していた。
形はどうあれモテモテでありながら、なお愛のテーマを次作に選んだことから推測できることは
やはりヴィクトルにとって“愛”は自分の少し先にあるもの、
現状の自分には無く、新しい自分に必要なものと考えていたのではないかということ。
実際にLifeとLoveを20年放ったらかしてきたよーと10話のモノローグでも語っている。
その中でも、アガペーが必要なのか・エロスが必要なのか、ヴィクトル自身も迷っていたのだろう。
果たして必要なのは、与える愛か? 求める愛か?

そして忘れないうちに記しておくと、
次の自分を表現し続けるスタイルと
自分がいちばん好きだと思えるスケーティングが知り得る金メダルへの近道と漏らしていたことからも
やっぱりヴィクトルは生粋の表現者でありアスリートだったのだなと思う。
そして「自分がいちばん」という評はヤコフからも聞こえる。
そんな奴にコーチなど務まるかと。
そう考えると、今までの自分に無いもの・足りないものとしてコーチを選んだ「スケーター・ヴィクトル」と言うのも納得が出来るんだ。
端から次世代選手の育成が目的では無かった。
その先にある自分へのインパクトや可能性を見据えていたのだろうと思う。

・アガペーとエロス それぞれの役割

アガペーはユリオに、エロスは勇利くんに。
想像の真逆を、ということで選ばれた配分は見事に作中を通して彼らのテーマとなった。
そもそもアガペーとエロスは何の役割を持っていたんだろう。
そこら辺を少し詳しく振り返っていきたい。

ユリオに与えられたアガペーは無償の愛。ともすれば自己犠牲的ですらある与える愛。
その象徴として真っ先にユリオに浮かんだのがじいちゃん。
家庭環境を掘り下げられていないのでこれ以上の情報は無いのだけど、
ロシアに戻った時に抱きついたり、わざわざカツ丼ピロシキ作ってきてくれちゃうあたり、
相当じいちゃん大好きっ子だし、じいちゃんも相当ユリオを可愛がっているのが分かる。
そして当初アガペーはじいちゃんが見てくれることで完成させるのだとユリオ自身が語っていた。
それを思えば、与える・もしくは捧げる愛がアガペーの位置付けであったのではないだろうか。

アガペーが与える愛であるのに対して、エロスは求める愛だ。
これは勇利くんがはじめて聞いた時に思い浮かべた物語に起因する。
ふらりと現れた色男が街一番の美女をターゲットにし、翻弄され、やがて美女も色男に陥落する。
しかし得た美女を放り捨てて、色男は次の街へ。
ここから分かるエロスとは、ただ求めるというよりも、求め求められ、時に強請り執着する愛だ。
性愛エロスのイメージとしていきなりカツ丼出たのはわろたけども。<もっと卵を絡めるように!
最終的に魔性のカツ丼になってたけど。カツ丼(900kcal)美味しいからね、しゃーないね。

この対比の理解がずっと私の中にあったんだ。

・アガペー

アガペーはリリア先生の言葉がとても分かりやすい。
そしてリリア先生の言葉にとても安堵したのも覚えてる。
曰く、
ユリオが今愛の入り口に立ったということ、
自分を支える愛が何なのか探している時こそ人は輝くのだということ。

温泉オンアイスで、純粋無垢なものやイノセントなものとWユーリが評していたことからも分かるように、
アガペーは人間離れした愛の象徴として描かれたプログラムでもある。
ユリオはその象徴としてじいちゃんを思い浮かべ、じいちゃんの存在でもってアガペーを完成させようとしていた。

この時点ではアガペーは「与える愛」の象徴として機能している。
そしてじいちゃんが不在のロシア杯で、与える愛は未完成として終わった。
実はずっと不安だったのが、ユリオのアガペーだった。
人間離れした無償の愛を与えるには、ユリオはまだ余りにも若すぎると思ったから。
スケートで家族を支えてきた境遇がすでにアガペーであると言っても良いくらいでもあるし、
むしろ今アガペーを享受すべきはユリオ自身だと思ってたから。
完成したとして、これからの未来にロシアスケートを担っていくことが分かりきっているユリオが
さらに自己犠牲精神なんて身につけてしまったらと思うと、居た堪れない気持ちになってしまう。
言うてかなり傍若無人なロシアンヤンキーではあったけども。

けれどアガペープログラムはまったく別角度から完成させてきた。
それは無償の愛を与えるためのものではなく、無償の愛があることに気付くためのプログラムになった。
与えられた愛に気付くことが第一段階とするなら、
自分が何に支えられてきたのか模索する入口に立つのが第二段階。

アガペープログラムは、ただ神の愛を模倣するためのものではなく、
人である自分たちがいかに愛を受けていたのかに気付くためのプログラムだった。

ユリオのアガペーが、与える非打算的で犠牲的なものの表現に着地しなかったことにとても安心した。
確かにロシアの妖精のあの風貌からすれば、人間離れしたものも表現出来たかもしれないけど。
愛の入り口にあり、与える愛の途上であることそのものに価値があるプログラムになったことが、
15歳のユリオだからこそ表現できるものであり、とてもこれからの成長幅を感じさせてくれた。

そしてアガペーを完成させるにあたって、ユリオから協力を仰ぎ、それに応える周囲があることを示してくれたことも良かった。
ヴィクトルの作ったプログラムで、ヤコフとリリアの指導のもと、
片手・両手上げジャンプをミラちゃんに教えてもらい
生まれ変わりながら周囲と作り上げてこられたのがアガペーだった。

何度も言うけど、ユリオが犠牲的な愛を与える側に行くなんてまだ早すぎるよ。
まだまだ周囲から愛されて、その愛に少し胡座かいて堂々と受け取っていたら良いと思う。
与える側に行くのは、その後だ。

ここまで言うとまるでユリオからの無償の愛は無いのかと思われてしまうかもしれないけれど
回を追うごとに変化する行動からもユリオ自身にも確かにアガペーは備わってきていることが分かる。
それは、与えられたものに気付き、徐々に与える側に移行している様子にも見える。
オタベック君とお友達になったり、ヴィクトル不在で試合に臨む勇利くんを応援したり、
さらにおたおめピロシキ(※じいちゃん作)あげちゃったり、
ヤコフリリア元夫妻にピロシキ振る舞ってあげちゃったり、ほんと天使なのかなこのロシアンヤンキー。

そして、そのもっとも大きな変化は、GPFで滑ったFSだったと思ってる。
勇利くんに再び火を灯して氷上に連れ戻したあのFS。
その結果がどう戻ってくるかも分からないけれど全霊でもって滑りきったあのFSは
まさにアガペーを経由したユリオだからこそ出来た渾身のFSだった。
だからと言ってあのFSが勇利くん復帰のためだけに滑られたとも思ってはいないけどね。
あのFSはあくまでユリオのためのものだ。
それが結果として勇利くんに火をつけたことに、大きな意味がある。

・エロス

対してエロスについては、これは勇利くんが毎回モノローグを入れてくれるのでより一層変化が分かりやすい。
そして温泉オンアイスで勇利くんが描いた物語は
勇利くんとヴィクトルの関係性を示しながら交差していった。
完全に色男は勇利くんでしたよ。
せっかく落とした街一番のリビングレジェンドぽいーして次の街行こうとしてんだから。

エロスプログラムと勇利くんの関係を考えた時に真っ先に思い浮かぶのは、これまでの勇利くんのスタンスだ。
これは後々YOIにも繋がっていくとして、そもそも勇利くんは「求める」ことに臆病だ。
与えられることにも求めることにも物凄い壁がある。
そして与えられるもの、寄せられるものに対して驚くほどうまく返せない。
※ただし泥酔時は除く <びーまいこーち♥

慰めようとして抱きしめてくれた女の子を突き飛ばしてしまったこと
応援してくれる故郷へ微妙な気持ちを抱えていたこと。
元々負けるために滑っていたことなんて一度もないと言いながらも、これで勝ちたいとチャオチャオに言えなかった姿。
本当は金メダルが欲しかった・勝ちたかったのに誰にも言えずにトイレで一人泣いていたこと。
(そして競技後に泣いたのは何回かあったという事から、以前にもああやって過ごしてた事があるのだろうと予想がつく)

愛や援助をすべて抱えきれるほどのメンタリティはなく、
しかしながら弱みも強気な姿勢も見せたがらず、
コーチの選んだ曲で滑ってきて、実際それで好成績が残せてしまったことも
今思えば行き詰まる要因のひとつではあったのかもしれない。

表現者としてはひどく孤独で、妙な言い方ではあるけれど「他人行儀」な場所に(ともすれば自ら望んで)あった勇利くんが
はじめて1:1に近い関係性のプログラムを練ろうとしたのがエロスプログラムだったんだろう、と書こうとして
それ以前に「離れずにそばにいて」をゆうちゃん宛に滑ってたわ。
そしてこれがヴィクトルを呼び寄せたのだからもうスタートから構成しゅごいとしか言えない。

エロスプログラムにずっと感じていたのは、勇利くんから手を伸ばして何かを勝ち取るためのもの、ということだった。
大切なのは勝ち得るという結果よりも、勇利くんが自分から手を伸ばすことだ。
それは、時に強請り執着する愛として。

実は、エロスプログラムの完成は、ずっとロシア杯だと思ってた。
だって物凄い安定感あるエロスだったんだもん。
ノーミスで滑りきってパーソナルベストを叩き出した、という点からも。
けれど何に手を伸ばすのか、何を求めて何に執着するのか、という点でいえばやっぱり完成はGPFだった。

ヴィクトルに向けられていたプログラムが
ヴィクトルを超えて、ヴィクトルと共に見るための勝利に向いたのがGPFのエロスプログラムだ。
勝利に執着して自分が選手としてギリギリまで研ぎ澄まされていくことを盛り込んできた。
「これで勝てるイメージがあるのか」と聞かれて引いてしまった頃を見てしまったので余計に印象深い。
明確に金メダルを目指していく力強さを秘めたプログラムに化けていった。
この目に見える闘争心と、失敗して氷上ではじめて見せたあの悔しそうな姿。

エロスは『愛について』を主題としたプログラムではあったけれど
勇利くんがフィギュアスケーターやアスリートとして覚醒していく様子が如実に描かれていく面白い構成だった。
実際、愛はYOIで表現しているから、というのもあるかも知れない。

■愛を滑るファイナリスト、愛を滑らないファイナリスト

愛について・Yuri on ICE・離れずにそばにいて と 主軸にあるプログラムのテーマがことごとく愛だし、
JJ・ミケーレ・ギオルギーもそれぞれの持つ愛をテーマにしたプログラムで滑走していた。
ミケーレはまさかFSであんな泣かせに来るとは思いもしなかったし、
JJも2回目のSPで泣かされるとは思わなかった。
私はぽぽさんの魔女とスリーピングプリンス超好きだったよ。この、人の話を一切聞いてない感じのプログラムな。
和訳見ると「救う救う、いやほんともう、マジ救うしキスもする」状態で一層おもろい。※注:めちゃくちゃ良い曲です

さて。
ここまで揃い踏みとなれば、ついつい愛至上主義になりそうなものなのに
そうさせなかったファイナリストもしっかり居る。
このバランスが凄まじく良かった。

特に顕著だったのは、オタベック・アルティン。

彼だけは本当に、一切、愛を滑らない。
そして唯一、SPでもFSでも愛を滑らないスタイルでファイナルまで生き残ってきた猛者でもある。
オタベックは氷上を戦場と言い切り、自分は生き残るのだと静かに猛々しさを滲ませるスケーティングをする。
カザフの英雄・ソルジャーの異名は伊達じゃなかった。
彼は氷上でいかに生きていくかそのものを見事に抽出して描かれている。

才能溢れる周囲に囲まれていたジュニア時代、彼らにないものを得なければ生き残ることが出来ないと
正解ではなく、自分と真摯に向かい合い戦い続けてきた結果が今のオタベックだ。
彼の存在があるおかげで、氷上で何を滑るのかの可能性が広がった。
ともすれば愛の強さが演技を左右するのだと結論付けられそうな中で、
愛だけが唯一の勝利理由にならないことをオタベックは証明してくれた。
単純に愛があればそれでOKなんて軸には持っていかなかった。

これは、ユーリonICEという作品を通して描かれる「愛に括りきれない深い関係性」のテーマに通ずると思ってる。
メタい話になるけれど、ユーリはそもそも、とってもBLっぽい。いちいち距離近くないですかありがとうございます!
あの距離もシンプルな師弟ではなくて、互いが互いに何かを得ようとしたが故の距離ではあるのだろうけど、ただこれを異性同士の話にすれば、この関係性はいとも簡単に「恋愛」の括りで落ち着いてしまうのだと思う。
逆に同性同士で行き過ぎれば、今度は別の主張分野に入ってしまうようにも思う。
私がユーリに関して好んでいたのは、割と全員が身勝手に、自分にとって必要な人と必要な関係性を築いていくところだった。
恋愛だからどうこう、というのではなく、あくまで主題違いだよという観点で。
(ただまあ恋愛を主軸にされたら好みじゃないと途中で切っただろうなとも思ってはいるけど)

制作陣はそれを避けようと同性を選び、恋愛と取れる描写を挟みながらも、その関係性を恋愛だけに着地させないようなバランスを保ってきた。
さらにその奥、個が個として成り立つために必要な他者との関わりとして描かれている。
そこには確かに「愛情」や「友情」や「憧れ」や「恋慕」を含みながら、最終的に戻ってくるのは彼らが彼らとして立ち続けるために必要な関係性だ。
そしてもっとも大切なことは、二者間だけで終わらせない関係性に着地したことだ。

これは愛であって愛ではなく、友情でもなく、信頼関係というほど盲目的でもなく、
でももしかしたらそれらすべてを包括しているようにも見える。
広く相互作用しあいながら向かっていく姿には、成長というよりも元々持っていたのであろう彼らの新たな一面という印象を受ける。

■ファイナリスト達についてもう少し

いきなりファイナリストとしてラスト3話で登場したオタベックの存在感は輝いているのだけど、
実はもうひとり気になるのが、ピチット君。
タイ人初のファイナリストとして大舞台で滑りきり、いつかアイスショーでスケート布教するんだって言ってる天使。
ほんと眩しすぎて直視できない。ピチットくん眩しい。
ピチットくんに感じるのは、ノブレス・オブリージュの精神。
持つものが与えるべきものは何なのかを体現してるような気すらする。
要するにもうピチット君尊い。眩しい。

オタベック・ピチットの両名に関して特徴的なのは、モチベーションにヴィクトルが居ないことも挙げられる。

対ヴィクトルについては、残りのファイナリストにも触れておきたい。クリスとJJだ。

クリスは一番分かりやすく(そして勇利くんとも似た感情でもって)モチベーションにヴィクトルがある。
勇利くんと違うのは、ヴィクトルがモチベーションの一つではあってもクリス自身はすでに自分のスケートを確立している点。
クリスのスケーティングの中にヴィクトルはいない。
ヴィクトルを追いかけながらスケーターとして独立したIF例のようにも見えた。
クリスはスケーターとしてあり続け、自分の好きなスケートが出来るのは自分だけだとも言っていた。
ヴィクトルの存在は必要だけれど、それも自分のスケートを滑るためで、根っこにあるのは自分のスケーティングだ。
これはこれで、周囲に左右されない王者の片鱗だ。
だから安定して強いんだろうなクリスも。

そしてJJは王者としてのヴィクトルが多少なりとも意識にあったことがロシア杯で垣間見える。
キングであるJJにとって表彰台の一番高いところにいる王者ヴィクトルは制覇すべき壁だったのかもしれない。
ただJJにとって大切なのはキングの称号であって、ヴィクトル自身ではない。

少し横道逸れるけど、JJもクリスも本当に良い選手だよなぁとしみじみ思う。
GPFの魔物に飲まれながら4回転に挑んだあの不屈の魂よ。そんなん一緒に歌ってしまうわじゃすとふぉろみー!
最後までキングであろうと会場を沸かせて終えたJJは本当に格好良かった。
強烈な自己愛の人かとも思ったけど、自らを鼓舞する力や、それを周囲に還元して応えられる様子からも
意外にもJJは、エロスもアガペーもそれなりにバランス良く持ち合わせている人物像なのが面白い。
そして魔物に飲まれて感情を発露させる若さが、JJの持つこれからの可能性なのだとも思う。

クリスに関してはあの安定感と余裕には、やはり25歳の貫禄を感じる。
自分のスタイルを確立して、特化させてきた強さがある。
最終話を見る限り少し不安も残るのは事実だけど。
目を伏せるなよクリス……大丈夫かよお……。ワールド頑張ろうよお……。

話をいい加減戻して、オタベックとピチット2名の「ヴィクトル不在感」。
勇利くんに関してはもう人生の半分がヴィクトルで出来てるし、
クリスとJJについても前述したとおり、何だかんだヴィクトルの存在は大きい。
ユリオにとってのヴィクトルも存在としてはとても大きい。それは本人の憧れというよりも同国出身のスケーターとして。

そんな中で、オタベックとピチット君はモチベーションにも周囲のしがらみにも、ヴィクトルの色は薄い。
純粋なる「次世代」として描かれているのがとても興味深かった。
5連覇する絶対王者はあれど、恐らくその王者が居なくとも彼らはこのGPFに立っていただろうと思う。
ちょうど機が熟したのが今だったんだろう。
彼らの持つ次世代感や、前例の無さはただただひたすら新しい歴史の第一歩にいることを思わせてくれる。
その可能性が眩いと同時に、ヴィクトルの打ち立てた歴史もやがて過去になっていくのだとも思わされる。

■Yuri on ICE

もうね。
勇利くんとYuri on ICEの関係がすっごい好き。すっごい好き。
変化し続ける様を見ながら、演技見るたびに泣いてしまう。
毎回毎回、何かを的確に刺されている気がしてならない。
曲単体で聞いても未だに涙ぐんでしまう。
だってもう、公式サイトで流れるショートバージョンとOPでユーリ視聴を決めた程なんだよ。

勇利くんのスケート人生から、勇利くんの愛がテーマになったYOI。
完成に向かうにつれて、その美しさもさることながら、
何が勇利くんの愛なのかを追っていけたことが何より楽しくて堪らなかった。

いつも始めのコンビネーションジャンプをハラハラしながら見つめて、
タイタニックポーズからのイーグル・イナバウアーの美しさに泣かされて、
そこからのステップには大体最高に盛り上がるモノローグが入るものだからここでも泣かされて、
ラストのジャンプは予想を上回ってきて、
まともに感想メモが残っていないくらい毎回祈るようにしながら見てた。
見終わると大体放心してる。
放心状態で見るJJは重たかったです(小並感)

勇利くんが滑る度に確かに刺されまくって瀕死になるんだけど、明確に刺されたのは7話のFS。
もう感想メモに「駐車場。」というダイイングメッセージしか残せていなかったあの7話と、最終話で繰り出してきたFS。
ほんと毎回毎回刺されてたし、4話でタイトル回収された時も死ぬほどビビったけどな!!!

7話でも最終話でも、何しろ心が揺さぶられて堪らなかったのが勇利くんがねじ込んできた4回転なんだ。
7話では、技術点としてどうこうということではなく、表現としてどうこうということでもなく、
ただただ純粋に「ヴィクトル驚くだろうな」でやっちゃったあの4回転フリップ。
技術的な面ではすでに備えていたとしても、それをいきなり本番中に出来たかという点で、
あれはもうまさに、ヴィクトルとの関係があったからこそ生まれた構成だった。
そしてもちろん、勇利くんがひとりで滑っていても生まれなかった。

そこに、ヴィクトルが今ここにいることや、勇利くんがこのプログラムと音を選んだことの必然性、
ものすごい可能性が見えて泣きたくなってしまった。
ヴィクトルのコピーではなく、勇利として選んでぶっ込んできた。
ヴィクトルの代名詞を、ヴィクトルもやらなかった方法で。
それも、誰かの何かのために作られた曲ではなく、勇利くんの愛をテーマにした勇利くんのための曲で!

ヴィクトルだけでは完成させられなかったイマジネーションと、
勇利くんだけでは成し得なかったことが凝縮されていた4回転フリップだったんだ。
ふたりだけの世界で完結させるものではなく、新たな可能性として見せてくれたことが何より偉大だった。

そして、最後のYOIで、勇利くんはヴィクトルと並び立った。
難易度をあげて、金メダルを目指した理由もありながら、その軸はヴィクトルだ。
コーチとしてあったヴィクトルの価値を知らしめるという意味と同じくらい、
「同じ舞台に立つのだ」という勇利くん自身が見えた。

ヴィクトルを超えること、ヴィクトルと並び立つこと、超える超えられる可能性のあるスケーターとしてあろうとしたこと。
追いかけるだけではない、隣に並び立てるようになること。
ヴィクトルの背中を追いかけているスケーターは数多く居たけれど、
競技者として並び立てたのはヴィクトルがコーチとしてリンクを降りていたからというのも事実で、
私はヴィクトルがコーチである状態のYOIの完成が素晴らしく好きなんだ。

とか何とか書き連ねつつも、何しろYOIが好きなんだよ。
音楽としての魅力もさることながら、勇利君がYOIを選んだのだということ。
自分のために作られ、自分でテーマを設定した曲で、ヴィクトルとプログラムを作り上げた。
それが自分の競技人生の中で、一番最後に滑るものになるという覚悟が込められた。
もはや魔力めいた魅力すら感じてしまう。

それは勇利くんの象徴であり、ヴィクトルの象徴でもある。
勇利くんは、コーチとしている限り競技者としてのヴィクトルは死んでいくと言っていたけど
競技者として重ねてきたヴィクトルは確かにYOIの中に息づいていると思っていた。

勇利くんだけがいるプログラムではなく、
ヴィクトルの振り付けと、コーチとしてのヴィクトルと共にいて、
選手としてのヴィクトルを追いかけ続けてきた勇利くんだから完成させられたプログラム。
この感覚は9話、ヴィクトル不在で滑りきったFSでとても感じたんだ。
このプログラムを世界で一番愛しているのは僕だなんて言い切れる勇利くんに涙腺を壊されていた。

■コーチとしてのヴィクトル

7話の話出来たからついでにぶっ込もう。私は7話がとても好きなんだ。
何が好きって、ヴィクトルがやっとヒト落ちしたからだよ!(言い方)
語弊も何もなくホントそのままだけど、コーチとして未熟なヴィクトル像が描かれているのがとても好きだった。

コーチとして力量がないことを喜んでいるというのではなくて、
ヴィクトルの未熟さが見えたことで、何だかはじめてヴィクトルに血肉があるように思えた。
序盤のヴィクトルはまさにリビングレジェンドで、勇利くんを見る目もどこか測っているような印象を持っていたから。

記者会見であれだけ浮かない顔をしていたヴィクトルが、勇利くんの涙に狼狽して、
どうしたら良いのか分からないと零して、勇利くんの演技に一喜一憂する姿がとても人間的に見えて安心した。

そして7話は、他選手とコーチのやり取りや距離感が描かれているところもすごく好き。
勇利くんとヴィクトルはまさに相互作用しあうパートナー型としての在り方だと思うけれど、
他選手にとってはそれが必ずしも正解ではないと分かるのがとても良かった。
たまたま勇利くんにとっては“ヴィクトル”が必要だったけれど、
他の選手とコーチにはそこに適した関係性がある。
チャオチャオが有能なことはピチットくんが証明してくれたし、
コーチであるヴィクトルの未熟さを見抜いたヤコフはやはり名コーチなのだとも思わせてくれた。
チャオチャオとヤコフの存在感や好感度が爆上がりしたのも7話だった。

■僕らは愛と呼ぶ 氷の上のすべてを

特にGPFでは顕著に描かれていたけれど、
よくよく思えばもうスタートから始まっていた、スケートを通して伝播していく熱。
個人の競技でありながら、個々が共鳴するようにスケーター達に熱が伝播していく様子がとても好きだった。

最終話、Wユーリのあの凄まじいリザレクション連鎖よ。
互いが互いに「勝て」と演技で突きつけ続ける姿が胸熱だった。
言葉ではなく熱量として、それもスケーターだから分かるものとして描かれているのがすごく好き。

いや、勇利くんとヴィクトルはもっと言葉で対話するべきだと思ってたけどさ。
びーまいこーち♥→別れよう は許されないよ、許されないからね!!!
それやっちゃうぐう畜の勇利くんも勇利くんだけど、
俺コーチやっててまじ生き返ってきたんだよね~って言わないヴィクトルもヴィクトルだからね!!!!!!

いちばん初めの火はヴィクトルからだった。
それが勇利くんの人生の大半を占め、クリスをワールドまで連れて行った。
やがて勇利くんの火はヴィクトルに戻り、今回のGPFまで繋がった。

そして最後の火をユリオが灯したのが何しろ素晴らしかった。

再びヴィクトルが火を灯していたのでは、物語は変わらなかったのだと思う。
ユリオが氷上以外で引き止めていても成り立たなかったとも思う。
互いに競技者として立っているのだと勇利くん自身が自覚出来たあのGPFで
氷上だったからこそ、再び火を見ることが出来た。

表現者としての業の深さなのか、皮肉ですらあるのか、彼らほんと言葉を素直に扱わない。
ドストレートに心情吐露してくるのはいつも氷上だ。
そしてドストレートに受け取るのもいつも氷上なんだ。

■そして、これは何の物語なのか

1話での勇利くんの自己紹介は最終話でももっかい踏襲される。
ただ、そこには低い自己評価は見えなかった。
自己評価の低さ故に出された「どこにでもいるフィギュアスケーター」ではなく
おそらく他のファイナリスト5名やヴィクトル、氷上でそれぞれ戦って演じてきた沢山の人たち、
彼らと同様に戦ってきた(そしてそれは恐らくフィギュアスケーターとしては当然なことでもある)
一スケーターとしての勝生勇利であると。

私にとってのユーリonICEは、成長物語ではなく、再生であり再誕の物語になったんだ。
死にかけの二人と死ねと言われた一人が氷上で生き返った。
それぞれがそれぞれ死んで生き返るようなものではなく、
他者からの炎が伝播しながら、全員生き返っていったあの鮮やかさよ。

勇利くんが獲ってきたのは銀メダルで、金メダルではなかった。
だからこそ物語は続き、そして完結しない物語こそ美しいと勇利くんも言っていたけれど、
これからの世界は変容しているところがすごく良いと思ったんだ。
ふたりのユーリがリビングレジェンドの記録を塗り替え、レジェンドは無事殺された。
だからこそヴィクトルは再び生まれこれた。

愛を見て、愛を得て、愛を与えて与えられて、
そして作り変えられた世界はまさに再誕後の世界なんだ。
ひとりで戦いきれなくなった彼らが、ひとりではなくなった。
元々ひとりでなんて無かったけれど、ひとりではない事を知って、受け入れられたことがすごく良かった。


もともとは、音楽と主人公役の豊永さんの声が聞きたいがために視聴をはじめたのに
まさかここまで引っ張られて、翻弄されるなんて思いもしてませんでした。
死ぬほど面白くて、死ぬほど魅力的でした。
すっげ長々となった代物を読んでくださった方に拍手を。ありがとうございました(ノ´∀`*)
でもまだ楽曲についてねちねち語りたい。
Still Aliveは名曲だし、Serenade for Twoも名曲だよ。

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